「ピュッ、ピュッ、ピュッ」
湖に腰まで浸かりながら数人の若い釣グループがお揃いのベージュのハット。
背中に英文字で書かれたお揃いのベージュのベストを着て懸命にロッドを振り弧を描きながらオレンジ色のラインを飛ばしている。
オレンジのラインは空にタイトなループを作り平らな湖面に”するするする”と真直ぐに伸びてゆく。
まるで手品師のようにラインを自由に操っている。
「おとうさん、あれなにやってんの。」
妻が呟いた。
「フライフィシングだよ。」
私はそれを見入っている妻に得意そうに話し掛けた。
「おっ、ヒットした。」
釣人の一人がラインをたぐる手を止めると同時に右手に持ったフライロッドを激しく立てる。
オレンジのラインは「ピシッ」と唸りながら湖面とロッドの先端に斜線を引きロッドはしなやかな弧を描いている。
私は岸に上がってきた若者に声をかけた。
「お見事ですね。」
若者は数本の毛鉤の付いたハットを左手で持ち上げ偏光サングラスを外しながら笑顔を返してきた。
「ちょっと見せてよ。」
若者は私の言葉に躊躇することなくロッドを手渡してくれた。
フライロッドはオービス社の9フィートのカーボン。
フライリールはやはりオービス社だ、多分フライラインも7番くらいのオービス社の物だろう。
胸に付いている毛鉤はパラシュート、カディスピューパ、赤緑黒と色とりどりのウーリィーマラブーなど5、6個付いていた。
私はロッドを振る真似をちょっとしてみた。
「おじさん、フライやったことがあるの?」
若者が興味深そうに聞いてきた。
すかさず私は何を期待してか得意そうに「昔ね。」と言ってしまった。
朝3時。
闇に覆われた湖面には、遠くホテルの明かりがかすかに揺れひっそりと静まり返っている。
岸辺に打ち寄せる波の音が漆黒の闇に吸い込まれて行く。
初夏の夜明けは早い。
薄暗い森の奥からは時折り野鳥の冴え渡った囀りがしじまを破る。
漆黒のベールを透かすかのように山々のシルエットがゆっくりと浮かび上がってくる。
鏡を置いたような湖面を森の方から流れてくる靄が乳白色に染めてしまう。
「パシャッ、パシャッ。」
突然、真っ平らな湖面に水滴を落としたように2つの波紋が出来、その輪がゆっくりと広がってゆく。
「ライズだ。」
私は胸の高鳴りを覚えながら呟いた。
私はウエーダーを履き終えると鏡のような湖面を壊すかのようにライズする方へと入っていった。
私の作る波紋が静かに広がってゆき2つの波紋を打ち消してしまう。
ラインを引き出すフライリールのきしんだ音が湖面の静寂を破った。
私はフライロッドを前後に振り、それによって出来るラインのループを確かめながらライズした方向にロッドを向けた。
ラインは白み始めた空にタイトなループを作り、ライズの方へ向かって真っ直ぐに伸びて行く。
そして、リーダーの先のグリズリーのハックルのついたの12番のパラシュートフライをふわりと落とした。
倒したロッドの先端からはオレンジのフライラインがライズの方に向かって真っ直ぐに伸びている。
私は左手の親指と小指に8の字を描くように伸びきったラインをゆっくりと巻き付けながら手繰っていった。
ただ一人湖面に立つ。
乳白色の朝靄と静寂が私を包み込んでいる。
誰もいない。
ただ波打つ音だけが静かに聞こえてくる。
「ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ。」
ロッドを前後に振りながら何べんもキャストを繰り返す。
そして真っ直ぐに伸びきったラインを手繰り寄せる。
「パシャッ。」
伸びきったラインの先にライズが起きた。
と同時に私の右手は反射的にロッドを立てた。
「ヒット。」
ライズの波紋の中心と弧を描いたロッドの先には真直ぐな強い直線。
まだ見えない魚の躍動がラインを手繰る私の左手に「ググッ」と伝わってきた。
私は慎重にラインを手繰り寄せ背中に吊り下げたランディングネットでそれをすくい上げた。
虹鱒である。
天然物であろう、尾びれに傷がなく透き通るように美しい。
宝石を散りばめたような魚体は、頬から尾びれにかけて帯状に鮮明な朱に染められている。
そして輝くような瞳は、さも私に哀願するような眼差しをしている。
私は上あごにしっかりと食い込んだ毛鉤を外し、鏡のような湖面にそっと返してやった。
今まで湖面を被っていた乳白色の靄がゆっくりと消えて行く。
靄の中に隠れていた岸辺の木々も徐々に緑の明るさを増してゆく。
そして朝日を受け朱に染まった男体山が眼前に雄大な姿を現し、鏡を置いたような湖面に悠然と映っていた。
「おとうさん、もう帰りましょうよ。」
妻の問いかけに私は、はっとした。
湖面に立ち込んでロッドを振っている若者に十数年前の私を見たのであった。