夏の雑木林 床屋

「おとうさん、頭の髪の毛だいぶ伸びているわよ。」「みっともないから、そろそろ床屋さんに行ってきたら。」
「仕事でお客さんに会うのでしょう。」
妻の声である。
うるせえなぁ~と思いながらも鏡をのぞき髪を手で摘み上げてみる。
そもそも床屋が嫌いで、伸びがめだってくると自分で鋏を持ち出して、耳の周りを切り揃えてしまう。
しかし自分でやるには限度がある。前から見ると良いのだが横から見ると頭の後ろ半分が伸びすぎていて格好が悪い。
子供が小さい頃、良く自宅で床屋をやったものである。
庭に椅子を持ち出し首から下を風呂敷で被い電気バリカンで刈り上げるのである。
たまには手元が狂って刈り込み過ぎてしまいそれを直そうと刈り揃えているうちに3分刈りの坊主にしてしまって泣かれた覚えが何度もあった。
そんな訳だから一番下の娘にだけは鋏を入れなかった。
「おめえは手先がきようだなぁ~。」
と、母がいる頃よく言われたものである。
「しゃぁねえから行ってくっか。」
近所の行きつけの床屋へしぶしぶ行くと数人が椅子に座って待っていた。
私の番が来るまで新聞なんぞを読んでいるがなかなか番が来ない。
あくびをしながら同じ新聞を何度も読み返している。この待っている時間が一番嫌なのである。
「お客さんどうぞ。」
ようやく私の番がきた。柔らかなリクライニングシートに座ると「いつもの通りでいいかね。」
私は鏡に写ったマスターに「適当にやってくれっけ。」
などと言いながら世間話をし始めた。
髪を切る鋏の音が心地よい。
特に椅子を倒して髭を剃っている時が一番気持ちが良くいつもウトウトとしてしまう。

「としお、今日はなんでもかんでも行ってくんだかんなっ。なんぼ言ってもいかねんだからぁ。」
「そんな、やまあらしみてぇ頭してっとみっともねえぞぉ、かあちゃん銭やっから涼しいうちに早く行ってこっ。」
「めんどくせえなぁ~」
などと言いながら親父の自転車を漕いで床屋へ向かった。
其の頃の自転車は、ハンドルが平らでサドルが分厚い牛皮で荷台の大きな黒光りする見るからに頑丈そうな物である。
一家に一台は有り、そこの親父がほとんど使っていた。
小学五、六年の頃だから、たしか「棒のり」だったと思う。
自転車は小学校四年の頃から乗り始め、今のように子供用の自転車などはないため親父の自転車で練習するのである。
まず始めは背が低いために「三角乗り」と言って自転車の前車と後輪の間の逆三角形の所へ片方の足を入れサドルを片手で抱きもう一方の手でハンドルを操作し なが ら乗るのである。
今思うとその光景が目に浮かび、あんな滑稽な姿でよく乗れたものだと感心してしまう。
この段階では自転車に乗るというよりも自転車に乗られている格好だ。
「三角乗り」をマスターすると今度は「棒のり」である。
自転車のハンドルの付け根とサドルの間にある横棒に乗る様に跨ぎサドルに座らずに(背が低いためにサドルに座ると足がペダルに届かない)漕ぐのである。
これが卒業すると、というよりも背が伸びてくるといよいよ自転車に乗ることになる訳である。
しかし、今思うとあの頃の道は何処も砂利と土のがちゃぼこ道、車が通ると土埃が舞い上がり、汗をかいた首の周りにはその埃が黒くこびり付いてきた。
村はずれの床屋に着くと、おっさんが一人だけ頭を刈っていて床屋のおやじと何やら世間話をしている。
おやじは私が入ってきたのを鏡で確かめながら「もうすぐおわっから、すこし待っていろやな。」
おやじは洗いくたびれた様な医者が着る白い上着を羽織、いらっしゃいとも言わずに不躾に言った。
部屋の中は板張りの床の上にがっしりとした理髪用の椅子が2台置かれている。
隅のほうに待合用の長椅子が置かれており粗末なテーブルの上にはタバコ盆と新聞が載っている。
その脇には空のゴルデンバットが捨てられたように置かれていて、灰皿からは消しかけのタバコが淡い紫色の煙をくゆらせている。
丸くて大きな鏡の前の台には白い陶器製の髭そり用の容器が置かれている。
暑いためか窓は全部開けっ放し、扇風機などは無い。
店のそばの大きなケヤキの木から蝉が「ミ~ン、ミン、ミン、ミン」とうるさいほどに鳴きあっている。
時折りケヤキの葉陰から涼しい風が入り込んできて、ぼけっとして待っている私を睡魔が襲う。

「こらっ、おめえの番だぞ。」
おやじの声がうとうとしている私の耳元で聞こえた。
ごつごつとした、いかにも座り心地の悪そうな椅子に座ると「いつもの三分刈りでいいんか。」
おやじがごっつい手で頭を押さえる。
バリカンで頭の前のほうからぶっきらぼうに刈り始める。
「いて~っ。」
バリカンの歯に髪が引っかかったのであるが、そんなことにはおかまえなしに力いっぱい頭にバリカンを押し付けて刈ってくる。
おやじも夏の暑さにいらいらしているのかもしれない。
「おめえ、たまに頭洗ってんのかゃ~。しらくも出来てるぞ、かあちゃんに言って薬付けてもらえ。」
言われてみれば頭など洗った覚えはず~っと無い、毎日のように川で泳いでいるからである。
「たまには、石鹸で洗わなくちゃだめだぞ。」
床屋も床屋で皮膚病にも構わず刈っている。この頃は頭を洗わないせいか”しらくも”保持者が多くいた。
学校の朝礼などで並んでいると頭の後ろの部分がすこし白いので良く分かった。
自分では気が付かないのである。
「そっちへすわれやぁ。」
店の隅には小さな木の腰掛がありその前にはタイル張りの四角い流し台が置いてある。
上の方には木製の桶が置いてあり真鍮の蛇口が付いている。
頭を突き出すと蛇口から冷たい水が頭を濡らしおやじがブラシでゴシゴシと頭を洗う。
私に恨みが有るのかと思うほど力任せに頭を掻き回している。
今度は固形石鹸を頭に擦り付け、これまた丁寧にゴシゴシと洗ってくれている。
石鹸が目に入って痛い。
「あれ、水が出ねえや。ちょっとまってろ。」
「おっかぁ~。桶に水いれてくれねえかぁ~。」
おかみさんが腰掛に乗りバケツで水を継ぎ足す。
おやじは黄ばんだ硬そうなタオルで私の頭を拭き、襟元や首筋に”アセシラズ”を真っ白になるほど塗ってくれた。
このアセシラズの甘ったるい匂いは何ともいえず今でも変わらない。いかにも床屋に行って来たという気分である。
「終わったぞ」
とおやじが言いながら私の薄汚れた”シヤッ”をブラッシングしてくれた。
床屋の帰り際、友達が寄ってきて頭を見るなり「とっちゃん、床屋行ってきたんけぇ~。」
「昼めしくったら川いくんだんべぇ~。一緒にいくべぇよぉ~。」
そして午後は夕方まで川の河童に変身である。

「椅子上げますよ。」
遠い記憶の中で微かに聞こえる蝉の鳴声に混じってマスターのささやくが耳元に聞こえてきた。