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磯山神社の紫陽花
「磯山神社」

壬生を後にして日光西街道(壬生通り)を北進し、南押原小学校手前を西に入ると鬱蒼とした杉林の中に磯山神社がある。
芭蕉一行が立ち寄った形跡は無いだろうが、今、アジサイが境内を埋め尽くしている。
夕刻になると提灯に明かりが燈され幽玄な世界に包まれる。

奈佐原文楽とは関係ありません
壬生より楡木へ向かう道の両側には、昔の並木の名残であろうか年功のたった杉や桧がところどころに立っている。そして楡木町の追分を過ぎて暫らく行くと奈佐原と言う所がある。
ここには文化年間(1804〜1817)より伝えられた人形浄瑠璃、奈佐原文楽が継承されている。

「奈佐原文楽」
文化年間(1804〜1817)には、一座があったものと思われます。当時の奈佐原は日光西街道・例幣使街道の宿場として栄え、遊芸人の往来も見られ、これらの影響を受けて、地元の同好者によって始められたようです。その後衰微しましたが、明治時代に大阪文楽座主吉田国五郎の門弟で、人形遣いの名人吉田国造(後の西川小伊三郎)が奈佐原に居住し、人形の操作や浄瑠璃の指導に当たるとともに、浄瑠璃は大坂文楽座を退座した竹本蔦太郎が楡木に住んで指導に当たりました。門弟の一人臼井巳之作(豊吉)は昭和37年(1962)12月14日、県の無形文化財に指定されましたが、同45年死去し、現在は地元の同好者によって演じられています。座員一同芸に励み、その技量の評価も高く、なかでも「絵本太功記十段目」、「阿波の鳴門順礼歌の段」、「奥州安達が原三段目」はお家芸となっています。
(鹿沼市のHPより)

光太寺の鐘撞き堂と笠塚
東武日光線、新鹿沼駅より北西の山の際に光太寺というお寺がある。
急な階段を上りつめると山に張り付いたように立派な本堂が建っている。本堂の脇には芭蕉の死後、寺に残された芭蕉の破れ笠を埋めて供養したといわれている 「笠塚」 があり碑面には 「芭蕉居士 嵐雪居士」 の八文字が刻み込まれている。
境内の東端に建つ鐘撞き堂からは東に広がる鹿沼市外が一望できる。

ここをクリックして下さい。「笠塚」の解説が拡大表示されます。

富士山公園より鹿沼市外(北方面)
「曾良随行日記」の中で鹿沼については 鹿沼ニ泊ル。 とだけの記述。
何処に宿泊したのか分かっていない。ある書物によると中町で元名主の都賀屋に泊ったとすれ説。芭蕉の笠塚のある光太寺に泊ったとする説。またあるお宅に泊ったとする説があると言う。
「曾良随行日記」の中にある 辰上剋、宿ヲ出。の記述から推測すると宿屋に泊ったのではないかと云われてもいるが、未だこの説は解明されていないそうである
はたして芭蕉達は何処へ泊ったのだろうか。笠塚の説明には光太寺へ泊ったとあるが。

「曾良随行日記」の中で今市については 火バサミヨリ板橋ヘ廿八丁、板橋ヨリ今市ヘ弐リ、今市ヨリ鉢石ヘ弐リ。とだけの記述で今市宿については何も書かれていない。 今市は鹿沼方面からの日光西街道・例幣使街道と宇都宮方面からの日光街道の交差する重要な所でもある。此の分岐点には日光の憾満ヶ淵から流れ着いたと言う追分地蔵が祭られている。また会津方面からは会津西街道(会津街道)が合流している。
年代は違うが文化十五年(一八一八)に書かれた日光巡拝図誌に大沢宿と今市宿の記述があるので紹介したい。

「大沢宿」今市へ二里
宿の入口に小橋有て小登りなり。此日此宿松の屋に泊まる。家の後に流れあり。宿のあるじ物語りに、将軍家日光御社参の節、此所迄江戸の水を運びて用ひさせ給ひ、此所より当所の水御用ひなり。此水宿はづれより左の方、十二町程に原有りて、其の所より湧出し、水源御見分あり。水も秤に懸けさせらると。
さて、とかくしてい寝たるに、庭にてしほらしき声にて鳴く音聞ゆ。新喬子は鴬にやなど言ふ。よくよく聞けば、蛙にてありけり。井手のかはずの類と見ゆ。後に聞くに、日光にも此蛙多くありと。朝とく宿を出づ。宿はづれゆへ左りの方に龍蔵寺といへる寺あり。御社参の節御休所となる。水なし村、次に森友。

「今市宿」はついしへ二里
此所より日光御山近く見ゆ。次第に御宮近く、何となく賑わし。商家多く食事売る家も多し。宿の中に溝有て小登りなり。商人家にはえたる柳を其侭看板になしたるあり、いと珍らし。左の図のごとし。(割愛)此所より右へ二里ほど入て、籠岩と言へる名高き所あり。日光大谷川の末にて、鬼怒川といふ川の左右、さまざまの岩並びて凡十町余り。真に絶景なりといふ。
少し行く、瀬川村、次は七里村。此所左の方に小池有て、弁才天の小祠あり。大きなる岩さし出て、眺望よし。前に茶屋あり。

(日光巡拝図誌より)