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黒羽城址より那須連山を望む

元禄2年(1689年)4月3日(新暦5月21日)、芭蕉と曽良は、玉生の宿を早朝に立ち、矢板、沢村、大田原を経、黒羽余瀬の翠桃宅に到着した。
黒羽では城代家老の浄坊寺図書(桃雪)とその弟鹿子畑善太夫(翠桃)に迎えられ、「奥の細道」紀行での滞在は黒羽が一番長く、4月3日から16日まで13泊14日の長期滞在をした。


(黒羽城址より那須連山を望む)

鹿子畑翠桃邸跡と墓所

余瀬は黒羽の北西にあり大田原と隣接している。余瀬の里は黒羽中心地より北西、慶応年間に大関増清が築いた白旗城があった所で、近くには芭蕉の弟子で大関家の家臣鹿子畑翠桃邸跡や墓所がある。この近くの西教寺の前を走る道は東山道で昔粟野宿だった。


(鹿子畑翠桃邸跡と墓所)

浄坊寺図書(桃雪)邸跡

「奥州古道」

黒羽での芭蕉は、城代家老の浄坊寺図書(桃雪)邸に招かれ厚くもてなされ泊まっていた。
浄坊寺図書(桃雪)邸跡は黒羽城址の南、大雄寺のすぐ北にあり芭蕉公園として整備されている。
芭蕉は、この書院から「奇峯乱山かたちをあらそひ一髪寸碧絵にかきたる」ような眺望をたたえて、”山も庭も(に)動き入るるや夏座敷”と詠んだ。庭内には加藤楸邨筆の句碑が建てられている。


(浄坊寺図書(桃雪)邸跡)

大雄寺 座禅堂への回廊

「黒羽山大雄寺」

黒羽山大雄寺(くろばねさん だいおうじ)は黒羽藩主大関家の菩提寺で、黒羽余瀬に応永11年(1404)に創建された。
現在の建物は文安5年(1448)に建てられたもので、大関高増により、天正4年(1576)黒羽城築城のおり、現在地に移築された。
大雄寺は600年以上の歴史を持つ曹洞宗の禅寺です。ぜひ一度は訪れてみたい所でもある。

詳しくは大雄寺のサイトをご覧ください。

(大雄寺 座禅堂への回廊)

大雄寺山門に咲くシャガシャガ

「黒羽山大雄寺山門」


(大雄寺山門に咲くシャガ)

牡丹牡丹

「花の寺」

大雄寺は花の寺(牡丹、シャガ)として有名で、五月頃には素晴らしい牡丹を観賞できる。
また、座禅なども体験する事が出来る。(要予約)

蓮蓮紫陽花

「黒羽城址に咲く花」

池に咲く蓮、お堀を埋め尽くす紫陽花

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玉藻稲荷神社

「玉藻稲荷神社」

建久4年(1193)源頼朝が那須野の巻狩りのときこの地を訪れ玉藻稲荷大明神を祀った。
この神社は玉藻の前(九尾の狐)の神霊を祭り、黒羽町の篠原にある。
玉藻稲荷神社は鬱蒼とした林の中にあり、一人ではちょっと寂しい所ではあるが芭蕉の句碑と源頼朝の歌碑があり、手前右手には鏡が池がある。

「那須の篠原」

「篠原」は篠の生えている原野のことだが、昔は「那須野の篠原」とは、雑草深い那須野が原の汎称であったろう。
源頼朝は建久四年(二九三)四月二日から同月二十三日まで、那須野狩を催した。以来那須野は狩場としてもてはやされた。

武士の矢並つくらふ小手の上に霰たばしる那須の篠原      源 実朝 (金塊集)
道多き那須の御狩の矢たけびに逃れぬ鹿の声ぞ聞ゆる      信実朝臣(夫木葉)
狩人の弓末ふりたてちかへども笠はた見えぬ那須の高萱     権僧正(夫木葉)

那須野はこのように歌に歌われて、「那須の篠原」は歌語ともなっている。
今は蜂巣には字篠原という地名があり、ここに九尾の狐の霊を祀る(俗信)という玉藻稲荷神社がある。
(那須町誌より)

「玉藻の前の古墳」

「川西町(黒羽町)大字蜂巣の西北隅、金田村(大田原市)大字小滝との境界線に狐塚(又きつね塚)と称する円墳がある。蓋し本義は古塚(こづか)であるのを、九尾の狐の伝説を生んだ篠原地内にあるので、狐塚と書し、やがて「きつね塚」と訛ったのである。併し古き絵図面には狐塚とある為め、小滝村方と秣場境界論に、尾多賀村(蜂巣)に属する塚だと主張して、大岡裁きに勝訴となったのは或は嘘から出た誠ではなかろうか」(那須郡誌より)