壬生町は五街道の一つ日光街道の西街道(裏街道)の宿場町であり、鳥居三万石の城下町で舟運の便もあったので大変賑わった。
西街道とは宇都宮を通る本街道によらず小山から壬生を通り、鹿沼、今市に至る街道で、公式の日光社参の往路は本街道を通り、帰路は西街道を通った。
西街道は不浄(縁起の悪い)の時の通路にもなった。慶安四年(1651)三代将軍家光の遺骸を江戸から日光の改葬する時、西街道を通り途中その柩が壬生の興光寺に安置されたそうである。別名御成街道(将軍のお成りになる街道)とも云う。
例幣使街道は京都から日光への勅使が通る道で、京都から中仙道を通って上野、の中部で分かれ、下野の足利、佐野、栃木、家中、金崎、鹿沼を経て日光へ向かった。(壬生は通らない)
大宝令が布かれた頃、駅路の制によれば、重要度によって大路、中路、小路に分けられた
。
大路は京都と中国との交通路にあたる山陽道で九州の大宰府に通じていた。
下野を通る道は東山道に属し中路であった。小路は各国府間を結んでいた。
東山道は京都から近江、美濃、信濃、上野、下野と内陸を通り奥州白河に至り壬生町はその中の宿駅だった。
その当時の関東地方は、野草が茫々と繁茂し馬の頭をも没する様な荒野が多かった。当時の中仙道はみかも山(栃木県岩舟町)の頂上を過ぎたといわれ、山を目当てにして道を迷わぬ為であった。
壬生の特産物の”かんぴょう”は江戸時代から栽培され、野州干瓢の発祥地として有名です。
干瓢作りを壬生に伝えた人物は、正徳2年(1712)壬生藩主となった鳥居忠英(とりいただてる)です。
忠英は寛文5年(1665)信州高遠藩主鳥居忠則の子として生まれました。
(鳥居家のいわれは、先祖が紀州熊野三山の別当(神官のまとめ役)であったとき、熊野川の河口の新宮に、大きな鳥居を建てたことにまつわる。)
忠英が三十歳の時、二万石の大名として江州水口(滋賀県)の藩主となり、領内の産業、学問にさかんに力を入れその功績が時の将軍綱吉に取り入れられて、正徳元年(1711)幕府の若年寄に命ぜられました。
正徳二年(1712)には、壬生三万石の藩主となり水口と同じように領内の産業にさかんに力を入れました。その時、壬生領内にこれといった特産物がなかったので、水口より干瓢の種を取り寄せ、領内の村々に種を分け与えました。夏になって、七ッ石、稲葉など幾つかの村ではうまく育たずただ藤井村の名主、篠原丈助が干瓢の作付けに成功しました
これが壬生の干瓢の始まりです。
【 干瓢 】
( 夕顔の果実で、原産はアフリカ、インドの熱帯地方、ウリ科の一年生つる草)
夕顔の実をひも状にむき天日で干し、乾燥させて保存する。
(のり巻きの芯に入れたり、いなり寿司のはちまきにする、またみそ汁に入れて卵とじもおいしい。)
慈覚大師・円仁は794(延暦13年)、下野国(今の栃木県)都賀郡に壬生氏の子として生まれました。誕生の地は、壬生町の紫雲山壬生寺であると言い伝えられています。ここには円仁が生まれたとき産湯として使ったという「産湯の井戸」が残っています。
9歳で大慈寺(下都賀郡岩舟町小野寺)の高僧広智(鑑真和上の弟子)のもとで仏教を学びました。15歳のとき、比叡山で最澄(天台宗の開祖)の元で厳しい修行をしました。
42歳の時、遣唐使と共に短期の留学僧(請益僧)として唐に渡りました。 唐では五台山(中国天台宗の聖地)で志遠和上に学び、いろいろなお経や本を写しました。長安では古代インドの言葉「しったん」を学びました。
日本には847(承和14年)に帰り848(承和15年)には比叡山に戻り854(仁寿2年)に天皇の命令で天台座主となり天台宗を大きく発展させていくために貢献しました。
864(貞観6年)1月14日、71歳で亡くなりました。866(貞観8)年7月14日天皇より「慈覚大師」の称号を贈られました。このとき最澄にも「伝教大師」の称号が贈られました。
「入唐求法巡礼行記」...円仁の著書で平安時代の遣唐使の旅行記で当時の唐の様子が記録されています。
アジアの三大旅行記(三蔵法師の「大唐西域記」、マルコ・ポ−ロの「東方見聞録」、円仁の「入唐求法巡礼行記」)の一つとして有名です。
室の八島から小倉川を渡って壬生へ入り、鹿沼方面に向かって3km程行くと稲葉の交差点がある。
そこにはセブンイレブンがありその裏の田んぼの中に「吉次が塚」がひっそりと立っている。また、ここから100mほど北に「稲葉の一里塚」がある。
「金売り吉次」
吉次(信高)は、金商いのために奥州と京を往き来した著名な黄金商人。金売吉次の本名は吉次信高(きちじのぶたか)、吉次は毎年奥州に赴き砂金を仕入れての商売をしていた。この吉次との出会いがきっかけで義経は奥州平泉に赴くことになる。承安4年(1178年)に、吉次兄弟は京からの途中、群盗藤沢太郎入道等に襲われ白河で殺害されたと伝えられる。
この地には源義経が奥州平泉に下る際、同行していた金売吉次が当地で病で倒れて死んだという伝承がある。しかし吉次の墓は全国に数ヶ所あるという。
「吉住吉次之墓」 (同所にあり)
吉次の墓石は丸形にて径二尺石なり此石古しへ夜ことに人の往来せるをかならず送り又小雨の夜に至りては猶更なれば農民畏れて之囲夫より後は更に送ることなしと云農夫の物語なり。
「壬生領史略」より
「吉次が塚」より2kmほど行き、稲葉の宿より西へ200mほど入ると伝説として伝えられている「親抱きの松」が田んぼの中に見えてくる。そこには二本の松の木があってお互いが抱き合うように立っている。芭蕉一行はここを存じていたのだろうか。
「親抱きの松」の記述が
「林不忘・元禄十三年」の中に書いてあります。
「親抱の松」 (円宗寺より八九十間北の方あり)
枝葉繁茂して常盤の色あり実に千秋の齢を保名松なり 松の由来畑の中に大小二株有相擁する形をなす嬢擁の松と云う伝ふ宇都宮九代下野守公綱(後に左少将冶部大輔)南帝の御方して後醍醐天皇の論旨を賜り中院中将定楠正成か告文あるに依りて京都に馳上がる公綱か被官
「壬生領史略」より
(「壬生領史略」は嘉永三年(1850)に碧山季美によって編纂された壬生領の地誌書)
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