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「化け地蔵」
「奥の細道」には憾満ヶ淵での記述はないが「曾良日記」には
ウラ見ノ瀧(一リ程西北)、カンマンガ淵見巡、漸ク及午。
とあり、芭蕉一行は裏見の滝を見てからここに来たと思われる。
ここには、慈眼大師天海の弟子約100名が寄進した地蔵が並んでいる。
明治35年(1902年)の洪水で親地蔵と他の地蔵がいくつか流され、100体近くあったのが70体ほどになっている。
その時に並び地蔵の中の親地蔵も流され、その首が川床に埋没していたのを見つけて浄光寺に安置したという。

「化け地蔵」
「化け地蔵」
並び地蔵は数えるたびに数が異なるといういわれから「化け地蔵」とも呼ばれている。芭蕉たちも数えてみたのだろうか。

参考資料(隋想社編 郷愁の日光 石井敏夫絵葉書コレクションより)

「憾満ヶ淵」
「憾満ヶ淵」
含満ヶ淵は、古くから不動明王が現われる霊地と言われ、水流の響きが不動明王の呪文のように聞こえたので、僧晃海が、呪文の一句「憾満(かんまん)」をとって「憾満ヶ淵」と名付けたと伝えられる。

「弘法の投筆 」
ここは、弘法大師空海が対岸の霊庇閣から筆を投げて書いたという伝説から”弘法の投筆”といわれる。しかし実際はこの地を開いた晃海大僧正が能書家の山順僧正の書いた梵字を岩に刻ませたものである。

参考資料(隋想社編 郷愁の日光 石井敏夫絵葉書コレクションより)

「憾満ヶ淵」

日光入町の南、慈雲寺の西北に在り。大谷川の水流此処に来たりて深潭を為し、激水岩をかんで両岸の岩石皆奇、虎の如く臥す者、豹の如く起つ者、千態万様にして たり。急 其の間を奔注し、水声雷鳴の如し。北岸に一巨岩あり、突兀として天を摩し、鬼斧神工の剞刻するに似たり、頂上に不動の石像を安置し、岩面に一大梵字を刻す。之を弘法大師の投筆と称す。左岸に数百躯の石仏ありて並分す。又溪上の護摩壇あり、円柱の四阿屋形にして霊庇閣と言う。
(大日本名蹟図誌より)

憾満ヶ淵之図(一)憾満ヶ淵之図(二)


(日光山志)
植田孟縉著/渡辺華山他画
文政8年(1825)序、天保10(1839)年に刊行された日光山の名勝誌を影印・複製する。開祖勝道上人の伝記等、東照宮以前の歴史も含め、東照宮の社殿関係や祭礼、美術工芸分野に関する記述、門前町の描写など、多岐にわたって日光の名所・風物を案内する。挿画には渡辺華山・葛飾北斎をはじめとする多数の著名画家が筆をふるっている。