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男体山が鈍然として雨野の中央に聳え、地方民族の崇敬の的であつたので、この山から日光の名が起つて来たことは間違ないと思はれる。故に日光の名は民族の信仰心からこれに種々の伝説が附加せられ、しかも当時の民族がこれ等の伝説を事実と信じて、日光の名が生れて釆たものである。 男体山は全山緑樹で包まれているので黒髪山と呼んだ、萬菓集の人丸の歌に、 うばたまの黒髪山の山菅に小雨ふりしきふすふりしきふすそ思ふ。
とある。人丸が果して男体山を見て詠んだか何うかは疑問だが、当時、黒髪とか山菅の名称が日光山にあつたことは窺はれる。
黒髪山から、毛野国、毛野沼、毛野川、の名が起つた。毛野国を仁徳天皇の御代に二つに分けて、上毛野国、下毛野国とし、元明天皇の時、国名は嘉字を撰べと云ふことから、毛を取って、上野国、下野国となり、毛野沼、毛野川が絹沼、絹川となり、次いで鬼怒川、鬼怒沼となり、川の内にある郡なので河内郡が出来、日光も嘗ては河内郡の地内にあったと日はれる。
二荒の起原に四説ある。第一が前節に述べたアイヌ語のフトラ(熊笹)の伝化、第二は大巳貴命、豊城入彦命二柱の現はれた山故 二現山、第三は丹青山の一部(前二荒山とも云ふ)の風穴から春秋二回大暴風を起こすので二荒山、第四は伝説による観音浄土の宮居補陀洛山の捧語、以上であるが、弘法大師が(後節に詳説)登山して二荒を音読してニコウとし、これに日光を当て嵌めたと云ふ説、叉、黒髪山は大日如来の威徳の輝く所で、大日如来光明遍照の句から日光と云ふ名称が出たとの説などある。何れにしても、日光の名は信仰と伝説の生んだものである。
二荒山を男体山と称する様になつたのは、徳一菩薩が常陸の筑波山を開いて、男体山女体山と呼んだことになぞらったと云ふ説もあるが確かでない。日光連山の主峰に男体山女峰山をつけ、それから金精山、太郎山、大眞名子、小眞名子山などの名が出来て子孫発展、民族繁栄、生々発育の目出度いことを表はした所謂奈良平安時代に於ける土俗信仰の結果つけられた名称である。


男体山はその昔日光山とも黒髪山とも二荒山とも呼ばれ、その「ふたら」とは観音浄土の補陀洛(梵語)から出ている。日光という地名は、「二荒」(にこう)を音読みにしたものともいわれる。
奈良朝末期から平安朝初期にかけて活躍した僧侶、勝道上人が西暦782年二荒山(男体山)登頂に成功したことに始まる。江戸時代までは修験の地とされていた。


歌が浜より男体山
(参考資料 隋想社編 郷愁の日光 石井敏夫絵葉書コレクションより)


左より男体山、大真名子山、如峰山、塩谷町船生より望む。

「奥の細道」
黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。
”剃捨て黒髪山に衣更” 曽良
曾良は河合氏にして惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま・象潟の眺共にせんことを悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。「衣更」の二字、力ありてきこゆ。黒髪山(男体山)男体山は日光山とも黒髪山とも二荒山とも呼ばれ、その「ふたら」とは観音浄土の補陀洛(梵語)から出ている。日光という地名は、「二荒」(にこう)を音読みにしたものともいわれる。
奈良朝末期から平安朝初期にかけて活躍した僧侶、勝道上人が西暦782年二荒山(男体山)登頂に成功したことに始まる。江戸時代までは修験の地とされていた。
(日光史より)

男体山 二荒山・補陀落山・黒髪山・黒上山・日光山・男体山などゝ号せり。二荒を転ぜし説は、前巻にも弁じたれは、茲に略す、また黒髪山と唱へしことは、万葉集にも見えて、古き唱にてぞ有りける。古老が語れるは、かゝる高山にて、積雪深けれど、麓より厳に至る迄、松・椎・檜・栂等の古木、積翠朦騰として真黒に見ゆるより、名附けたる謂とぞ語りし。或鋭に、上古の御世には、此国の名を毛国と名附く。毛といふ時は成熟の意なり。田畠に稜して生ぜしものを作毛と唱へ、成熟せざる地を不毛の地と呼ぶが如し。当国も神代より高山に樹木の成立しけるより、国の名も是より起れるにや。又毛とは草木稲蔬の生熟する謂をもて、黒髪山とは称するならんといふ。此鋭の如きも、其理当れるに似たり。又男体山の名より、大真子・小真子の二子の称をも生出せしなり。扨麓禅頂ロより登ること凡三里の直道なり。絶嶺に三社を祀れり。頂上の広さ南北十町許、東西三町ほど、登道嶮為にて、道絶えたる危き所もなく、躋躡する事易し。仍つて古木の鬱翠、四時枝葉を栄え、石楠花二尺より三四尺廻、或は疎曙の扶抱すべき大木数多有りて、林をなせり。絶頂に至りては、四辺の神秀なることは、、言葉に述べがたし。嶺に神社を祀り給ふは、勝道上人神護景雲元年四月、初て跋渉を企てゝ、半路にして雷鳴し、道に迷いて登ることを得ず。夫より十五年を経て天応元年四月又企てて、登らんとすれども果たさず。同二年三月、経を写し仏を図し、、山麓に至りて一七日読経し、神明に誓ひ、山頂に至ることを得ば、経巻仏像を絶頂に置きて、天地の神明の為に供養し、神威を崇め奉らんと祈念し誓ひ、漸三度目に登臨を極むと云々。此時上人神祠を祀り給ふは、天地の神明を祀り給ふなり。其後弘仁七年登山の時に、三神の影向を拝し給ひて祀りけるは、、是日光三社権現の鎮りましますの始なり。対面石とて、山上に一石あり。弘仁七年影向を拝し給ふ石なりといへり。此余記するに遑あらず。禅頂心て其神秀なるを知るべし。

万葉十一
うば玉の黒髪山の山菅にこさめ降りしきますますぞ思ふ    人磨
続古今
うば玉の黒髪山をけさ越えて木の下露にぬれにけるかな     同
新後拾遺
身のうへにかゝらんことぞ遠からぬ黒髪山にふれるしら雪   従三位頼政
堀川首首
旅人の真野の軍令朽ちぬらん黒かみ山の五月雨のころ   公実朝臣

うば玉の黒髪山に雪ふれば谷も埋まるゝものにぞ有りける 俊頼朝臣

うば玉の黒髪山の頂に雪も積らばしら髪とや見む       隆源
夫木
ながむながむ散りなんことを君も思へ黒かみの山に花咲きにけり   西行法師

寛永十三年二十一回御忌、勅会にて公卿門跡登山、此時阿野宰相藤原公業卿卯月の初に登山ありて
山菅の橋よりみれば名にも似ず黒かみ山に残るしら雪
慶安元年三十三回御忌、勅会にて公卿門跡登山。此時三条宰相藤原実教卿卯月の初に登山ありて
時しらぬたぐひか是も夏かけて黒髪山にふれる白雪
(日光山誌より)

黒髪山之図(一)黒髪山之図(二)


(日光山志)
植田孟縉著/渡辺華山他画
文政8年(1825)序、天保10(1839)年に刊行された日光山の名勝誌を影印・複製する。開祖勝道上人の伝記等、東照宮以前の歴史も含め、東照宮の社殿関係や祭礼、美術工芸分野に関する記述、門前町の描写など、多岐にわたって日光の名所・風物を案内する。挿画には渡辺華山・葛飾北斎をはじめとする多数の著名画家が筆をふるっている。