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城代家老の浄坊寺図書(桃雪)に見送られ、余瀬を発った芭蕉一行は奥州街道の野間から越堀を経て元禄2年(1689年)4月16日(新暦6月3日)、芭蕉と曽良は高久に到着し、高久覚左衛門宅に2泊した。
余瀬からの足どりは、余瀬〜蜂巣〜桧木沢〜糠塚原〜野間〜旧黒磯(那珂川を渡る)〜高久本部(二泊)
高久邸は国道四号新高久の高福寺の近くで、国道の右側にある宅地には「芭蕉二宿」の碑と芭蕉翁塚がある。

※野間より高久に出る行程には二説がある。 (那須町誌より)
・野間十字路〜鍋掛〜越堀(奥州街道)から北上して高久
・鍋掛に出ず、野間より北上して旧黒磯の地より那珂川を渡って高久本郷

那須町鍋掛の案内板

「曽良随行日記」に 馬ハ野間ト云所ヨリとあり
”野を横に馬牽きむけよほとゝぎす”
の句は奥州街道沿いの野間から鍋掛の辺で詠まれたと云われる。
鍋掛村は鍋掛、野間、越堀、寺子の四大字より成り、役場を越堀に置く。和名抄に挙げた黒川郷は、その区域本村にも及んだようである。奥州街道は、大田原より鍋掛、越堀を経て蘆野町に出で、境明神より白河町に達する。本道は寛永四年徳川家光の開いた新道で、鍋掛宿もこの時開けたものである。
大字鍋掛は那珂川の右岸に沿うた旧奥州街道の宿場で、昔時那珂川には橋梁なく、旅客は徒渉したので、頗る賑わった。
箒川、かちわたりにて、洪水にも渡舟なし。那須川(那珂川をいう)は、鍋掛宿に在り。常にはかち渡にす。水増さる時は舟なり。此川上に殺生石あり。
(那須郡誌より)

鍋掛の地名の謂れ。
那珂川が増水して川止めになった時、川が減水するまで逗留しなければならなかった。其の時、旅店のみでは人手が足らない為、宿場の人々が相助けて鍋を幾個となく掛けて炊き出しを行ったので、鍋掛の地名が起こったと謂われる説。
また一説には、鍋を掛けるとは分家する義で、もと小数の民戸であったのを新戸を分ち立てたので遂に一部落となったから称する説。
(那須郡誌より)

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高福寺と芭蕉句碑

高福寺の境内には芭蕉の句碑がある。
訪れたとき、芭蕉の句碑は皐月の中に埋もれていた。
また本堂の西側には立派な鐘撞堂があった。


(高福寺と芭蕉句碑)

高久邸にある芭蕉翁塚

覚左衛門の孫の青楓が、宝暦4年(1754年)芭蕉が当地を訪れたことを記念して「芭蕉庵桃青君碑」を建て翁塚としたもの。
青楓は、俳文にちなんで塚を「杜鵑(ほととぎす)の墓」と称した。


(高久邸にある芭蕉翁塚)
芭蕉翁塚解説

芭蕉翁の筆跡

高久家に伝わる芭蕉翁の筆跡
元禄二年四月十六日、高久覚左衛門の宅を訪ねて書き与えた。
みちのく一見乃桑門同行二人那須の篠原をたつねて、猶殺生石みむとて急き侍る程に、あめ降出けれは此のところに、とどまり候

風羅坊
落くるやたかくの宿の郭公
曽良
木の間をのそく短夜の雨 

高久家系譜(五世信親の上注記)
「元禄二年四月 俳人芭蕉翁 来宿し発句在 按に旧の屋敷 馬場にありし時也 三年午 同六年今の堀之内へ迂りし也」
(那須町誌より)

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