雑木林

桃源郷


「梅、辛夷、木蓮、桃、桜・・・」
今年は木々の装いが例年になく早い。
庭の藤もたくさんの大きな蕾を付け始め今にも咲きそうである。
今年は草花や木々の花咲く時期が何処か狂っているようだ。
何もかもが観測始まって以来の異常さである。
規則正しい四季を切り替えるチャンネルが数年前から狂いだしたようだ。
そんな事を想い、昔の古いアルバムから出てきた写真を見ている。
この写真を撮ったのがたしか私が20歳の頃であるからかれこれもう30年も前である。
しっくりと手に馴染んだダイキャスト製の愛機”アサヒペンタックスSP”を肩からぶら下げ被写体を求めて歩き回っていた。
この頃は”雲”の魅力にとりつかれモノクロ(コダック社のトライX)で”雲”ばかり追い求めていた。
桃と絹雲 photo by hiyama
「おばちゃん、桃の花撮らしてもらえっけ。」
「花に気いつけて入ってくろよな。今、大事な時期なんだから。」
親父さんは粗末な”出作小屋”の中で土間の筵の上に胡座を組みこちらを伺いながらキセルをふかしている。
私は木戸を開けて桃畑の中に入っていった。
河川敷に造られた広い畑には、同じ高さで並んだ桃の木が濃いピンクの花を満開にさせ、畑一面を桃一色に染めあげて私を迎え入れてくれた。
川面から流れてくる春の風が桃の花を微かに揺れさせ、満開の花からは陶酔したくなるような甘美な香りを畑一面に漂わせている。
私は藁の敷かれた木の下に仰向けに寝っ転がった。
紺碧の果てしなく続く空には、薄い絹のベ-ルを敷き詰めそれを軟らかな羽根箒で掃いた様な巻雲が幾筋にも重なり合い何処までも続いている。
耳を澄ませば”さら、さら、さら”と透きとおった瀬音が、春の風に乗って微かに聞こえてくる。
そして、桃の花びらは春の淡い光を受け透きとおったように輝いていた。
それを見つめている私のすぐ傍で鈍い羽音を立てながらミツバチが数匹桃の花の周りでホ-バリングしている。
しかしそのうるさい羽音が何故か私を遠い世界にいざなってくれる心地よい音に聞こえる。
そして甘美な睡魔が私を誘惑する。
何もかも全てを忘れ、私の心は桃の花が醸し出す甘美な睡魔に酔いしれていた。
ひょっとして、これが”桃源郷”と言うものなのだろうか。