那須温泉神社
元禄二年(1689年)四月十九日(新暦六月六日)芭蕉と曽良は那須温泉神社を拝観後、殺生石を訪れた。
第三十四代舒明天皇の御代、狩ノ三郎行広は白鹿を追い求め山中に湧く温泉を発見しここに神社を建立した。また、那須与一が屋島の合戦のおりに成就を祈願し見事に扇の的を射抜いたという、与一ゆかりの鏑矢や扇などが奉納されていたという。しかし今は拝観することはできない。
また、境内には
昭和天皇の御歌碑がある。
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千体地蔵
殺生石の手前には「賽の河原」といわれる草木も生えぬ荒涼とした風景が広がり、岩の間からは鼻を付く硫黄の臭いが漂ってくる。
そして、遊歩道の左手には千体地蔵が折り重なるように並び立っている。手を合わせ天を仰ぐ石仏たち。その祈る様は悲痛にも似た形相の凄さに何故か圧倒されてしまう。
昔、教伝という僧侶が、那須へ湯治に出かける際、母のすえたお膳を足蹴りにした天罰によって殺生石の火の海地獄に落ちて死んでしまった。この伝説にちなみ千体地蔵を建立して交通安全と家庭平和を祈願した。
詳しくは
こちらをどうぞ。
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源翁和尚
昔、栃木県那須野ヶ原に殺生石というものがあり、怪異をなしていました。源翁という僧がこれを聞き大きな金鎚でこれを割って、悪霊を取り除きました。これから金鎚をゲンノウとも呼ぶようになったと言われています。
九尾の狐伝説
昔中国や印度で美しい女性に化けて世を乱し悪行を重ねていた白面金毛九尾の狐が今から八百年程前の鳥羽天皇の御世に日本に渡来しました。この妖狐は「玉藻の前」と名乗って朝廷に仕えた日本の国を亡ぼそうとしましたが、時の陰陽師阿部泰成にその正体を見破られて那須ヶ原へと逃れて来ました。その後も妖狐は領民や旅人に危害を加えましたので朝廷では三浦介、上総介の両名に命じ遂にこれを退治してしまいました。ところが、妖狐は毒石となり毒気を放って人畜に害を与えましたのでこれを「殺生石」と呼んで近寄ることを禁じていましたが、会津示現寺の開祖源翁和尚が石にこもる妖狐のうらみを封しましたのでようやく毒気も少なくなったと語りつたえられています。
誤伝の句碑
殺生石からすこし離れた所には誤伝と伝えられる句碑が残っている。
誤伝である為か碑面は埋められて消してある。
この碑に書かれた句は、越中の芭蕉の門弟、麻布の句と云われる。
”飛ふものは雲はかりなり石の上”
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高久の里に二泊した芭蕉は、十八日午前七時ごろ雨が止んだので、昼食後に那須湯本に向かって出発した。
湯本までは芭蕉・曽良・覚左衛門・図書の家来一名で、午後三時頃湯本の宿屋五左衛門方に到着し一泊した。
十九日は快晴で宿の五左衛門が案内で殺生石、温泉神社などに参拝して十九日も湯本に泊まった。
高久より遊行柳(芦野)までの道順
高久〜松子〜田代〜守子〜那須温泉(二泊)湯本〜小ヤ村(池田)〜北條〜山梨〜漆塚〜上皮袋〜二本杉〜法師畑〜中ノ川〜西坂〜芦野(遊行柳)
那須温泉の由来によるとその歴史は、今から一三七〇年前の鹿の湯の発見に始まるとされています。
那須温泉で最も古い鹿の湯は湯川の左岸にあり、奈良時代には都にも知られていた。しかし、江戸時代末期の山崩れで湯川の右岸に移動してしまった。芭蕉が訪れた頃も「曾良日記」に「湯数六ヶ所あり」と書かれてあるように、温度差のある浴槽がいくつかあったのだろう。
那須温泉の由来(一)(PDF版)
那須温泉の由来(二)(PDF版)
那須野より