南摩川の橋を渡り真っ直ぐ行くと右曲がりの大きなカーブに差し掛かる。
カーブの突き当りには、分厚い鉄板が敷かれた工事用の橋が掛かり、入り口は工事用のプラスチックバーで遮断されている。
その橋の向こうは、山際まで田んぼであったろうと思われる跡があり、一面枯れ草で覆われていた。
その奥にある山は、尾根付近まで木が切られて木っ株だけが残された禿山と化している。
低い尾根付近では、ごつごつとした岩肌が剥き出され、荒れるに任された状態となっている。
南摩川に沿ってちょっと行くと、左へと入る林道がある。
そこには沈下橋と言うよりも小さな堰があって、堰の下は淵となって青く淀んでいる。
私は、そこに山女でもいるかと思い小石を投げ込んでみた。
しかし、釣られてしまったのか魚影すら見えない。
そんな岸辺には枯れ草に混じって柔らかな綿毛を付けた猫柳が、キラキラと波立つ清流の光の中で輝いていた。
林道入り口の向かい側にも荒れ果てた田んぼの跡が広がっている。
その枯野の中に一本の古びた木の電信柱が傾いて立っている。
そこには一本の電線が本線から弛んで張られていて、外して使わなくなった電線が輪に束ねられて電信柱に引っ掛けられている。
黒々とした杉山を背に、枯れきったススキの穂と一直線に伸びた電線が逆光に輝いていた。
枯れ野に半分埋もれひっそりと立つその様は、何故か寂しくて悲しそう。
そして、その脇にも枯れ野と化した屋敷の跡があった。
この屋敷跡の入り口には一本の枝垂れ桜があり、枯れ野の中で見事な枝を四方に広げて悠然と立っている。
樹齢は計り知れないが、ここに以前住まわれた方が庭に植えたものだろう。
今までにどの位、上南摩の素晴らしい四季の移り変わりを見届けてきたのだろうか。
私は、大きな枝垂れの桜に近寄って芽をつまんでみた。
まだ固い。が、ほんのりと膨らんでいるかのようにも感じられる。
この見事な枝垂れ桜もいずれ切られて処分されるか、それとも何処かに移植されるのか今の私には分からない。
ただ、上南摩の地の長い歴史をくまなく見続けてきたこの木を、是非、後世まで残しておいて欲しいと私は思う。
今年の春には、溢れるような桜色を悠然と着飾り、盛装した見事な雄姿を我々に魅せてくれるのは間違いないだろう。
2013年9月アーカイブ
整地された屋敷跡の裏を直角に曲がると道は川こ沿つて直線となる。
川沿いには孟宗竹が植えられている。
葉の重みでしなった竹は、風にざわざわと揺れながら光に輝いている。
左奥には、先確の小高く盛られた古い塚が見えている。
私は、背丈もある枯れ草をかき分けながら塚の方へ行ってみた。
まだらに生えた残った枯れ草の合間からは"さや"が見える。
小さな"さや"の前には、故人が使っていたと思われる陶器の茶碗と箸が載った白木の朽ちかけた膳が添えられている。
そして、小高い塚の上には二基の墓石があり、その横には長い月日の間に風化した石塔が西を向いて建っている。
私は塚の前に佇み手を合わせた。
早春の柔らかな光は、私の長い影を塚の上にいつまでも残していてくれた。
塚の入り口からちょっと行くと左に入る狭い砂利道がある。
左奥には先程の塚が見え、山に沿つた道を奥まで行くと薄暗い杉山に入る。
道の左側には猫の額ほどの墓地らしき跡がありその奥は行き止まりであった。
戻って県道に出ると、突き当たりに鉄製の構が掛かっている。
入り口には鉄の鎖が二本張られて錠で結ばれていた。
その橋の欄干には、大きな看板が四枚並んでいる。
そこには「ダム建設絶対反対」の八文字が白地の看板に大きく書かれていた。
この看板は、クランクを曲がり切ると同時に目に飛び込んでくる。
看板の八文字は、南摩川を支配しているようで強烈な威圧さえ感じてしまう。
橋の入り口に張られた鎖を跨いで橋を渡る。
正面には鬱蒼とした杉山を背に、風格のある古民家が正面を見据えてどっしりと構えていた。
茅葺きの屋根はトタンで包まれ、所々が雨の流れに沿つて赤く錆び付いており風雪を感じさせる。
広い軒下の木の雨戸はぴったりと固く閉じ、歪んだガラスの入った引き戸の入り口には南京錠が掛けられ力一テンが閉まっていた。
"誰もいない。離村されたのだろう。
昨年の秋。
やはり、私は三脚にカメラを据えてこの場所に立っていた。
民家の広い庭は伸びた秋草に覆われて荒れたままだった。
民家の脇にある納屋の前には、この家の"おばあちやん"が使っていたのであろう、手押し車が荒れ放題の秋草の中に"ぽつん"と打ち捨てられていた。
何となく切ないこの光景に、私は数年前にこの世を去ったありし日の母の婆をこの手押し手にダプらせていたのかも知れない。
時折吹く乾いた山風が、裏木戸にある柿の木の色付いた葉っぱを"ひらひら"と舞い散らせていた。
その光景は、ファインダーを覗く私の目には綺麗でありながらも何故か寂しい切なさを感じてならなかった。
吹く風にどことなく春を感じさせる今、ファインダーに映される光と影は少しも変わってはいない。