家路(夏)

暑い日の休日、数年ぶりに路線バスに乗った。車内はがらがら数人乗客がいるだけで、空いている横掛けの椅子に座った。
外の暑さをよそに、バスの中は冷房が効いていて、夏の暑さの疲れとバスのエンジン音もてつだってか、椅子に寄りかかるとすぐに睡魔が襲ってきた。

「としお!先に停留所に行って、バスにすこし待っていてもらえ!
かあちゃん、仕度済んだら後からすぐ行くから!」
歩いて5分位のところにバスの停留所があり、そこまで駆けていくバスの時間は過ぎているのに、まだ来てはいなかった。
「まったくいやだなぁ、かあちゃん早く来ればいいのに!」
気の小さい私は、バスが来てしまったらどうしようかと、その不安で心臓はドキドキしている。
やがて母が来るのと一緒にバスが土埃をあげてやって来た。
「ああよかった。」
その頃のバスはボンネット型で、タラップを上がると中は暑さで蒸し蒸ししていた。
母と二人で奥の方の二人掛けの椅子に座った。

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「発車オ-ライ!」
開け放された窓からは、土埃と共に心地よい風がはいってくる。
車掌が切符の入った黒いショルダ-かばんを下げてやってきた。
母は、切符を買って大事そうにがま口にしまい込んだ。
風を受けながら窓外を見渡せば、のどかな田園風景がつづいている。
真っ青な空に、もくもくと大きく立ちはだかる入道雲の下、穂をつけはじめた稲は、時折の風に、打ち寄せる波のようにうねっていた。
一時間程で町に着き、母は行きつけの呉服屋に入り品定めをしている。
そのころは、嫁入り前の姉達がいたので一年に数度となく呉服屋に出入りしていた。
母にせがんで、その度に私がお供していた。
私の最大の楽しみは、デパ-トの食堂でお子さまランチ、寿司などを食べることと少年雑誌などを買ってもらうことだった。
帰りのバスに乗るために、近くの停留所へ行くとバスの待ち客でいっぱいだった。
仕方がなく始発に近い停留所まで歩いていき、そこでバスを待った。
ここまで来るとバスも空いており、二人掛けの椅子に難なく座れた。
先ほどの停留所に来るまでには椅子は満席になり、バスが停車すると通路に荷物を抱えた人たちが入ってきて、バスは満員となった。
私は、人いきれで曇った窓ガラスを手で拭くと、ネオンサインが今日の町の雑踏の終わりを告げるかのように、あちらこちらで赤、青、黄色とまばたき始めている。
そんな町を後に、バスは朝来た道を戻り始めた。
停留所に着くたびに乗客は降りていき、バスの中は数人だけになった。
私は、買ってもらった雑誌を封も切らずに大事そうに胸に抱えている。
窓を見るとガラスに写った私の顔の奥に、疲れた様子の母の顔が車内のほの暗い光に写し出されている。
遠くを見れば、山の端が夕闇の空をバックに浮かび上がり、なだらかなシルエットを作っている。
漆黒の山裾には、家窓から漏れるほのかな灯りがぽつんぽつんと寂しそうに灯っていた。
遠くの空には一番星がキラリと輝いていた。

「としお!降りるぞ!」
うたた寝していた私はびっくりして跳ね起きた。
隣の乗客が子供を呼ぶ声であった。
私を三十数年前に戻してくれた、バスの中の出来事。