瞑想(夏)

私には、とっておきの時間がある。
気が向いた時だけの、ほんの数十分間である。
それは、瞑想にふける事でその手段として、座禅を取り入れている。

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数年前に、ある寺の座禅会に参加してから、その魅力に取り憑かれてしまった。
足を結跏趺坐に組み、手は法界定印に組む。背筋は真っ直ぐに伸ばし肩の力を抜いて、目は半眼にする。

頭の中で呼吸するごとに、1っ、2っ、3っ・・・10迄数えたら、また元に戻って、同じ事を繰り返しながら呼吸を整えていく「数息観」で精神を集中統一する。
最初は足は痛くなるは、眠くなるは、蚊に刺されるはで集中出来ず、かえってイライラしてしまった。

それから週に何度と無く座ってみた。
が、今度は雑念が次から次ぎへと湧いてきた。
雑念との戦いは依然続いていたが、そのうち、雑念は雑念として捉えいかに雑念と仲良くなって、ひとつの雑念に集中出来るかを考えるようになった。

雑念を取り払うなど、在家の分際では到底無理である。
しかし、雑念などは何れにしても、1っ、2っ、3っ・・・と数えて息を整え、雑音や頭に浮かぶものはありのままに受け入れていると、やがて瞬時ではあるが、頭の中が空っぽになるときがある。

その時間が非常に心地よいのである。
座禅を始めた理由といえば、座禅によって悩みなどのストレスが解消出来るのではないか。という非常に単純な理由からだった。
いわば現実からの逃避という情けない考えでもあった。

しかし、座禅に関する本を漁って読むうちに、座禅とは何なのか。
と言うことが朧気ながら分かるようになってきた。
ある書物に、この様な事が書かれてあった。

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禅というものは、こだわりからの解放である。
なにか一つのことに心がこだわってしまってどうにもならなくなったとき、その心のこだわりを解してくれるのが禅。

また、禅の第一歩は、何にこだわり、何にとらわれているかを発見すること。
自分の心の状態をしっかりと自覚すること。それに気付けさえすれば、おのずから心は自由になる。

「覿面の今」を大事にしなければならない。
「現在、目の前にある今」しか私にはないのである。過去は過ぎ去ったから過去であり、もはやないものだ。未来はまだない。
何れやってくる未来も、やって来るときは覿面の今だ。

とすれば、未来なんてありはしない。あるのはただ現在だけ。
「いま、ここ」しか私たちには生きることは出来ない。
それをそう悟って生きてゆくのが禅的生き方である。

今やっている仕事を精一杯にやる事。
覿面の仕事をする。



※ 平成8年7月20日に参加した座禅会の想い出より
栃木県鹿沼市上久我にある曹洞宗のお寺常真寺でした。
住職(皆川廣義、駒澤大学名誉教授)(第38回前日光緑陰禅の集い平成8年7月20日)
一泊二日の参禅会では、午後1時から皆川先生の講話から始まり、入浴、夕食、座禅があり午後10時には開枕(就寝)。
二日目は、午前4時20分に起床し、座禅、作務、朝食、講話、座禅、昼食、そして解散となりました。

典座教訓 道元禅師(Maywindのつぶやき)