紙芝居(冬)

「トン・トン・トン・トン」
台所から軽快な歯切れの良い音が聞こえて来る。
春の七草、"セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ"
早春の青菜を切り刻む音だ。
1月7日、新世紀を迎えて最初の七草である。
「おとうさん、新聞入れ溜まっているみたい。出して整理してくれる。」
包丁の音に混じって妻の声が聞こえる。

新聞入れには案の定、広告と新聞が雑多に積まれている。
何時もの事ながら、広告だけがやけに分厚く感じる。
「もったいないなぁ~」
「いったい何人がこの広告に目を通すのだろう。」
そんなことを思い、きちんと畳み直しながら紙袋へ詰めていく。
「あれ~。」
私は一枚の新聞の見出しの写真に目を奪われた。
それは昭和30年代のものと思われる"紙芝居"の写真である。

kamishibai.jpg

「ちりん、ちりん、ちりん」
自転車に乗った紙芝居屋が鐘を鳴らしながらやってくる。
自転車の荷台には紙芝居と水飴や酢いかの入った大きな箱がくくりつけてある。
その下には太鼓がぶら下がっている。
村のお決まりの場所には、その音を聞いて子供達が集まってくる。
その場所は、"白門"と云われる所で、いつも私達はそこを遊び場にしていた。
大谷石で囲まれた中には、大きな岩の上に建てられた忠霊碑があった。
大谷石は子供らのいたずらで、黒い味噌の部分はほとんどほじくられ、穴ぼこだらけであった。
そこには大きな百日紅の木が植えられており、いつでも誰かしらよじ登っていた。
花の季節になると、紅の花が満開になった。

集まってくる子供らは、いつも15人位いたと思う。
学生服やセイタ-の上に綿入れの半纏を着込み、薄汚れたズボンにはくたびれた皮のベルトがだらりと垂れ下がり、靴はズックかゴムの短靴だった。
服や半纏の袖口は、鼻水を横殴りに拭くので誰の袖口も鼻水の固まりで黒く、"かべかべ"して光っていた。
この頃は、まだ栄養状態が良くなかったので、"ボッ鼻"といって青味かかった鼻汁を垂らしている者が多かった。
いつでも"ズゥ-コ、ズゥ-コ"と鼻汁を鼻の中で往復させている。
よく見ていると"ボッ鼻"がだんだん垂れ下がり口に入りそうになる所で"ズズ-ッ"とすするのである。
それの繰り返しである。
たまには口の中に入ることもあった。
しかし、本人もよく気にならなかったものである。
そんなわけで、鼻の下は埃でいつも真っ黒であった。
その頃は鼻をかむにも、柔らかい鼻紙など無く、新聞紙とか手鼻とか先ほど書いた着物の袖口で済ませた。
袖口は鼻汁が固まっていて、袖で鼻を拭くのに鼻が痛かった覚えがある。
次から次へと昔の事が浮かんでくるので話が横道にそれてしまった。

紙芝居が始まる前にまずお菓子を買う。
これが見物料である。
主なものは水飴、これは割り箸を二本に折りこれに水飴を絡めてある。
割り箸で水飴が真っ白になるまでこねるのである。
そして、口の中へ入れたり出したりして甘味だけ味わいなかなか食べないのである。
あとは、酢いか、酢コンブなどであったと思う。
紙芝居が来るたびに「かあちゃん、銭っ。」と言って、10円貰った覚えがあるから五円か十円位だったと思う。
「とうちゃん、銭っ。」と言った覚えはほとんど無いので母からは貰いやすかったのだろう。
そんな訳だから小遣いに有りつけなかった者は、こっそりと慰霊碑の裏に隠れて"ただみ"していたようだ。
たまには怒鳴られることもあった。
その頃の演目は、たぶん「月光仮面」か「怪人二十面相」などであったと思う。
「月光仮面」などは当時の人気漫画であり、次回来るのが楽しみであった。
週に1度位来たと記憶している。
終わると早速、「月光仮面」の真似事や紙芝居の談義がはじまる。
田んぼにある、わら束の上ではプロレスなどが始まりいつでも服や頭は藁しぶだらけ。
そして日が傾き影が東に長くなる迄遊んだ覚えがある。
そんな昔を思い出させてくれた一枚の新聞であった。

「おとうさん、七草粥出来たわよ。」台所から妻の声がする。
食卓に着いた次男の鼻の下と、目の前にある七草粥を見比べながら苦笑した私であった。