栃木県日光市鉢石町にある下野三十三観音第二番札所鉢石山 観音寺です。
鉢石山 観音寺は、国道119号から左手に急坂を登ると日光市役所の西側にあります。
宗派は天台宗で千手観音菩薩を本尊としています。
急坂を登ると山門があり、手前から石段を登ると観音堂があります。
境内はかなり広く、本堂の前には日光市街を見下ろすように鐘楼があります。
本堂の拝殿で合掌参拝。
下右は、佐久問甘海の句碑。
"撃のほる山や大悲の風かをる"
鉢石山観音寺は、弘仁十年(820年)に弘法大師空海によって開かれた古刹です。
江戸時代に東照宮が鎮座されたとき慈眼大師天海大僧正から鉢石山無量寿院観音寺の称号を頂きました。
本堂脇には春を告げるヤシオツツジや枝垂れ桜が咲き乱れていました。
山門前の右手から石仏が並ぶ石段を登ると杉木立の中に千手観音の御堂大悲殿がひっそりと佇んでいます。
ここが、観音寺発祥の地と言われています。
扁額には大悲殿とある。
年1回(8月9日)に弘法大師空海自刻と云われる千手観音像が本堂から移されて御開帳されます。
観音堂からは日光市街が一望でき、国道119号線が真っ直ぐに伸びています。
下右は、享和3年(1803年)華道の門人達が建立した草木塚供養塔です。
草紅葉 木も 終あり 始めあり 宗明居士
下は、鉢石山 観音寺で頂いたしおりと御朱印です。
鉢石山 観音寺
栃木県日光市上鉢石町1003
TEL 0288-54-0339
閑話休題
日光市鉢石町について松尾芭蕉が曾良と歩いた奥の細道で紹介されている。
元禄2年(1689年)2月(旧暦)に出立し芭蕉一行は4月1日(旧暦)に日光に着きました。
その晩鉢石宿に泊まった件が奥の細道と曾良随行日記に記されています。
奥の細道
卅日、日光山の梺に泊る。 あるじの云けるやう、「我名を佛五左衛門と云。
萬正直を旨とする故に、人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。
いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別にして、正直偏固の者也。
剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気禀の清質尤尊ぶべし。
現代語訳
三十日、日光山のふもとに泊まる 。ここの主が、
「わが名、仏五左衛門と申します。なにごとも正直を旨といたしますゆえ、人もこのように申しますもので。一夜の草枕 、打ち解けてお休みなさいますよう」
という。いかなる仏が、この濁世塵土に現れ出でて 、このような桑門の 乞食巡礼ごときものをお助けくださるのかと、主のなすことに心をつけて見ていると、ただ無知無分別にして馬鹿正直なるものであった。剛毅木訥は仁に近し 、というが、生まれついての清らかなこころ、もっとも尊ぶべきであろう。
曾良随行日記
一 四月朔日
前夜ヨリ小雨降。辰上尅、宿ヲ出。止テハ折々小雨ス。終日雲、午ノ尅、日光ヘ着。雨止。清水寺の書、養源院ヘ届。大楽院ヘ使僧ヲ被添、折節大楽院客有之。未ノ下尅迄待テ御宮拝見。終テ其夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。壱五貳四。
現代語訳
四月一日、前夜より小雨降る。辰の上刻、宿を出る。やんでのち、時々小雨となる。終日曇り。午の刻、日光に着。雨上がる。清水寺の書を養源院 へ届ける。大楽院へ使いの僧をつけてくれた。折悪しく大楽院に別客あり。未の下刻まで待って、お宮を拝見することができた。その夜は、日光上鉢石町の五左衛門というものの方に泊まる。一五二四。
芭蕉一行は日光山内などを見学したそうですが鉢石山観音寺へのお参りも五左衛門さんから勧められたのかな?
それから、私のサイト奥の細道in栃木でも日光を紹介しています。