日本最初の公害として有名な足尾銅山は明治初期に民間に払い下げられ1877年に古河市兵衛の経営になりました。
その後、足尾銅山の銅精製時に発生する鉱毒ガス(二酸化硫黄)により足尾の山々は禿山となり土壌の崩壊へと繋がっていきました。
そして、山々に降った雨は渡良瀬川に流れ込み鉱毒を含んだ土砂は渡良瀬川の下流に堆積していきました。
特に台風などの洪水による被害は甚大で、鉱毒を含んだ渡良瀬川から取水している田畑では稲が立ち枯れる被害が続出していました。
明治34年(1904年)田中正造は鉱毒被害地の現状を明治天皇に直訴するという事件が起きてしまいました。
政府は1902年第二次鉱毒調査委員会を設置し、洪水を防ぐために渡良瀬川下流に鉱毒沈殿用の大規模な「遊水池」を作るべきとする報告書を提出。
そして、栃木県、群馬県、埼玉県、茨城県の県境に、鉱毒沈殿用の渡良瀬遊水地が作られました。
足尾鉱毒事件、谷中村強制廃村、田中正造については城山三郎著"辛酸"に書かれていますので参考に。
以上、渡良瀬遊水地の沿革を簡単に書いてみました。詳細はウイキペディアの足尾鉱毒事件を参照下さい。
この様な辛酸な歴史ある渡良瀬遊水地と足尾銅山の鉱毒問題に尽力した田中正造に関する史跡や強制廃村となった旧谷中村を日本遺産に認定を目指す市民団体が2月に発足するそうです。
広大な自然に包まれた渡良瀬遊水地はラムサール条約湿地に登録されており、私も以前足繁く通った覚えがあります。
この素晴らしい歴史ある遊水地を日本遺産に登録され是非、後世に残していきたいものですね。
私が以前に撮った写真集がありますのでご覧ください。(モノクロ写真・FLASH使用)
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