晩秋の散歩道(エッセイ)

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雑木林

朝から重そうな雲が垂れ込めている。
腰のリハビリを兼ねて近所の公園に散歩に出かけた。
栃木県壬生町のわんぱく公園で開催されていたとちぎグリーンフェスタ2018も終わり、展示されていた花壇も何故かさびしそうである。
ちょっと色付き始めた雑木林に入ってみると、砂利道には落ち葉が舞い散っている。
歩幅を狭めてとぼとぼと歩くと、私よりも高齢なお年寄り夫婦とすれ違った。
「こんにちは」
挨拶を交わしながら、十数年前の想い出が頭をよぎる。

挨拶
晩秋のある日曜日の午後。
気分転換に、いつものお気に入りの雑木林へ行ってみる。
枯れ葉の絨毯が敷かれている小径に入ると、木々の隙間からは晩秋のやわらかい光が射し込んでいる。
時折の梢を渡る風に、クヌギの枯れ葉が数枚はらはらと私の肩に舞い落ちる。
私は枯れ葉の絨毯の中を、物思いにふけながら踏みしめて行く。

初老の夫婦が、すれ違いながら笑顔であいさつをする。
「こんにちは。」
「・・・・・・・」
私は黙って、目だけであいさつを交わした。
私は、老夫婦が怪訝そうな顔をして振り向いたのを背中に感じた。
すれ違う人たちは、老夫婦のようにはつらつとしていた。
「憂いなどないのだろうか?」
と呟く。

私だけが憂いを背負って生きているかのような感じである。
しかし、誰しもが楽しい事ばかりあろうはずがない。
憂いがあれば歓喜があり、苦があれば楽がある。
この世の中、生きるもの全てが喜怒哀楽の繰り返しである。
だからこそ、人生に面白みが有るのではないだろうか。
憂いている時は大いに悩んで悩み抜けば、きっとその次には楽しいことが待っているのである。
苦しい悩みから逃避してはならないのである。
楽しいときには大いに楽しみ抜き、次にやって来るであろう重い憂いに心を備えていればよいのではないだろうか。

「随処に主なれば、立処みな真なり」(臨済録)

いつどこでも、自分のいる所置かれている所で精一杯やればいい、 そこから真の生き甲斐が生まれてくる。
人生は何度でもやり直すことが出来る。
やり直しがきかないという のは、今日の自分も明日の自分も同じ自分だと考えるからだ。
今日は今日で、精一杯に生きる。
明日のことなど今考える必要はない。
今、この瞬間の可能性を生きればそれでいいのだ。

「・・・・・・・・・・・」
「こんにちは。」
すれ違いざまに挨拶された。
私も振り向いて明るく挨拶を返した。
(秋の雑木林より 2004年 記)

※ 画像は写真ACより

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